大仏殿(金堂)
## 歴史
大仏殿は国宝であり、当初の大仏・盧舎那仏および大仏殿は、聖武天皇の発願により8世紀に造られました。しかし、その後二度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代に再建されたものです。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初の部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作です。
## 大仏造立の詔と再建
聖武天皇は天平15年(743年)に大仏造立の詔を発しました。当初、甲賀寺で造立が始まった大仏は、その後現在地の奈良で改めて造立を開始し、天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われました。しかし、治承4年(1181年)の南都焼討の兵火で大仏殿は焼失し、大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちました。その後、重源の尽力により大仏と大仏殿は再興され、文治元年(1185年)に大仏の開眼供養、建久元年(1190年)には大仏殿の上棟式、建久6年(1195年)には大仏殿落慶供養が行われました。この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567年)の東大寺大仏殿の戦いで再び炎上しました。
## 江戸時代の復興
大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま数十年が経過しましたが、江戸時代に公慶上人の尽力により大仏と大仏殿ともに復興しました。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690年)に鋳造され、元禄5年(1692年)に開眼供養が行われました。大仏殿は宝永6年(1709年)に落慶しました。
## 修理と現状
文化3年(1806年)、下層の屋根が重みに耐えられず波打って垂れ下がってきたため、屋根を支える支柱を設けました。1877年(明治10年)頃から修理の計画が検討されましたが、実施されたのは1906年(明治39年)からでした。その際、大屋根を支える虹粱にイギリス製の鉄骨トラスが組み込まれました。1915年(大正4年)には大仏殿落慶供養が行われました。
## 建築様式と構造
大仏殿は寄棟造、本瓦葺きの建物です。2階建てに見えますが、構造的には一重裳階付きで、正面5間、側面5間の身舎の周囲に1間の裳階を回しています。間口57メートル、奥行50.5メートル、高さ46.8メートルで、奥行と高さは創建時とほぼ変わりませんが、間口は約3分の2に縮小されています。建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様が基本であり、水平方向に貫を多用するのが特色です。
## 内部の像と展示
大仏の左右には木造の如意輪観音坐像と虚空蔵菩薩坐像が安置されています。堂内北西と北東の隅には四天王のうちの広目天像と多聞天像が安置されており、いずれも江戸時代復興期の像です。四天王の残りの2体(持国天、増長天)は未完成で、両像の頭部のみが大仏殿内に置かれています。